ボカシノロポエ

このブログは、ボカロ曲の歌詞について個人的な解釈を発表する場です。Twitter→@poe_rics

第1回「メリュー」

この記事は、楽曲の制作者であるナブナ様ご本人がpiaproで発表されている歌詞を横に並べつつご覧ください※

 

この曲の歌詞を読み解く上で、重要なキーワードは3つ。

「メリュー」と「バス」だと思う「のだ」。

 

という訳で、まずは「メリュー」について。

この「メリュー」という言葉。いくら調べても、この楽曲以外検索にヒットしない。

ということは、おそらく造語であると解釈するのが妥当であると思われる。

 

そして造語であるということは、制作者ご本人がどのような意図でこの造語を作ったのかが重要となる。この意図については幾つか説があるものの、「生放送でご本人がメリーバッドエンドのことであると述べられた」というニコニコ大百科のメリューの記事のコメント欄を信じ、メリーバッドエンド説を採用する。

 

 メリーバッドエンドの作品というと、ウィリアム・シェイクスピアの「ロミオとシンデレラ」、近松門左衛門の「曾根崎心中」、ウィーダの「フランダースの犬」などが挙げられる。

 

 メリーバッドエンドとは、第三者が見るとバッドエンドな結末が、本人達にとっては最善の結末であるという物語である。もし知人や友人が亡くなったら、おそらく通常は「辛い」よりも「悲しい」が先に来る気がする。しかし、これが恋人が亡くなるメリーバッドエンドであれば「悲しい」より「辛い」という言葉が先に出てきてもおかしくない。

 

また、なぜ「メリーバッドエンド」や「メリバ」といったオーソドックスなタイトルではないのか。ということについては、ありふれた言葉では耳に引っかからなかったり、心に残らなかったり、ひねりがないと面白くないという要素の他に、ありきたりの言葉では検索で上位に上がってこないからという理由も考えられる。

 

 

続いて、「バス」について。

バスは何の比喩で、どこへ向かっているのか。

バスというのは、ある地点からある地点へ移動する為のものである。

私は、1番と2番に登場するバス(バス停)は現在と過去を移動する為の場面転換の道具として使われているのではないかと推察する。

 

1番と2番のバス(バス停)は、どちらかが過去でどちらかが現在であると思われるが、歌詞を見ると正直どちらとも取れる。

 ①1番のバスが現在で2番のバス停(過去)へ到着する→1番は火葬場に向かう僕、2番はあの日遠くなっていった君を見ていた僕のことを表しているのではないか。

②1番のバスが過去で2番のバス停(現在)へ到着する→1番で火葬場に向かい、2番では次のお盆あるいは何年後かに君を弔う為、この海に灯篭流しをしに来たのではないか。

 

ちなみに、メリューの投稿文を見ると、「灯籠流しの唄。」とある。このヒントから察するに、上記①と②を統合した③説が浮かび上がってくる。

 

つまり、あの日君が遠くなっていった海の景色があって、その後君は灰になって、今こうして君を弔う為に灯籠流しをしに海に来ているという情景だ。

 

 

 なお、1番の歌詞のバスの場面。葬儀場からバスに乗って火葬場に向かう場面だと解釈したのは下記の2つの理由からである。

  • 「灰になった」ではなく、「灰になって征く」とあるので、これから灰になることが想像される。
  • 「征く」は、「行く」よりも壮大で広大な場所へゆくイメージがある。

 

そして、2番のバス停。
通常、空には隅っこも無ければ、足がつくこともない。ということは、物理的なものではなく、比喩として使われている。空が映った波打ち際であれば、隅っこにも足がつく。

 

この歌詞では、1番のバス(火葬場)から2番のバス停(海岸)へタイムスリップすることにより、「君」がどのように征き、その事実に対して僕がどれほどそれを受け止めきれないでいるのかについての感情の重さを表現しているのではないか。

身を「投げた」という部分から、受動的で避けられず(病気や事故等)亡くなったのではなく、能動的に亡くなったのだと受け取れる。

 

 

 キーワード3つ目は、「のだ」という部分。

頻繁に登場する「○○なのに、○○だったのだ!」部分は何を強調しているのか

ここでは、僕の後悔の強さを表現しているのではないだろうか。

「きっと僕がこうしていれば君は今こうなっていなかったかもしれないのに、僕が君に対して行動をしなかったばかりにこうなってしまっているのだ」と自分を責めているように思える。

 

通常、同じような言葉を繰り返すのは、リズムを出すため大事なことだから何回も言いますねのように、作品の中で一番伝えたい部分であるかのどちらかである。歌詞を見る限り、サビ以外でも後悔している節があるので、前者に加え後者の意図もあるのではないだろうか。

 

 

その他、上記キーワード以外で気になったもの。

 

  • 「様に」と「ような」という表記の違い。

おそらく、「夕陽」という視覚として見えるものについては「様に」、「耳鳴り」という動作として感じるものに関しては「ような」と使い分けているのではないか。

 

  • 「君」と「僕」の組み合わせ。

文章で「君」と「僕」という言葉が使われる場合、「女性×女性」という組み合わせはあまり想起されない。大抵、「男性×女性」あるいは「女性×男性」という組み合わせで意図されることが多い。もちろん絶対ではない。しかし、「私」と「君」であれば「女性×女性」という組み合わせも考えられるが、「君」と「僕」という表記ではメリーバッドエンドものということを考えても男女の物語であると考えるのがスムーズではないか。

 

  • 1行の歌詞部分の解釈

 この作品の歌詞は、通常2行で1ブロックとして進行していく。しかし、時折り1行で登場する歌詞部分がある。正直、この1行部分の解釈が最も難しいが、自分なりに考えてみる。

 

たとえばこんな言葉さえーの1行・・今になってみれば色んな言葉が口から出てくるけれども、あの時は何1つ出てこなかった。あの時君に何か言えていればよかったのに!(思いとどまらせることができたかもしれないのに)

今でさえ埃をー」の1行・・今だって足がつくこの場所。そしてあの時も足はついていたのに。

どうせ死ぬくせに」の1行・・人は遅かれ早かれ死んでしまうことは避けられないのに、どうしてこんな感情に苛まれるのか。(その後の「どうせー」の1行は余韻を持たせる為に短くして繰り返したのではないか)

あぁあ」の1行・・・もう!あの時、そして今!何をすれば、どうすれば!

僕もきっとー」の1行・・僕だって本当は君と同じく灯籠を送られる側になっていれば良かったのに。

君がずっとー」の1行・・君は僕を置いて逝ってしまったのだ。

 

 

【ストーリー解釈】

「僕」にとって「夕陽が落ちる様に胸が染まる」「心臓が痛い」という部分は、肉体的苦痛というよりも精神的苦痛の象徴。だからこそ、耳鳴りもするし、辛い。ずっとその痛みを引きずっている。「見なよ」というのは、誰に語りかけているのか?おそらく僕が君に語りかけていて、僕が君と一緒にいけたなら、このように「辛い」と思うこともなかった。人は遅かれ早かれ死んでしまうのに、何故こうも辛いのか。それは僕が止められなかったからか、一緒にいけなかったから。

 

灯籠流しをした後、「僕」はどうなるのだろうか。それは誰にも分からない。しかし、もしメリーバッドエンドなら、「君」と同じ場所にいって再会するのが僕と君にとってのハッピーエンドなのかもしれない。「こうで良かったのに」というのが灯篭のことを指しているのだとすれば、その可能性もない話ではない。

 

以上が、私の考察である。

この歌詞は、詩的で美しく、それでいてリズミカルで哲学的であり、その奥深さに吸い込まれそうになる。ポエリックスを考える上でとても勉強になった作品である。